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006 人形劇団プーク

創立85周年を経て、新たなステージへ飛躍する「人形劇団プーク」。一人の芸術指導者がめざした すべての人々の平和と幸せのために創りだされる世界 小さくて、可愛くて、あたたかな人形劇を通じて

85年の歴史をもち、新宿で劇場を運営する人形劇団プーク

事務所探訪第6回は、「人形劇団プーク」。昭和4年(1929)に創設され、今年で85年という長い歴史をもつ、日本の人形劇団の草分け的存在です。戦前・戦後の長い歴史の中にはいわれなき迫害を受けるといった出来事もありました。そんな厳しい状況におかれながらも、プークは、故・川尻泰司氏の指導のもと、人形劇というジャンルを確固とした芸術に昇華させることに成功したといえるでしょう。プーク人形劇場を中心とした舞台での人形劇だけでなく、スタジオ・ノーヴァが生み出す世界観は子どもたちに多くの感動と夢を与えています。今年放送が始まったNHKのテレビ人形劇『シャーロックホームズ』においても、プークは人形制作に、操演にと大きな役割を担っています。

今回は、代表の渡辺真知子氏にお話をうかがいました。

■ 劇団プーク、プーク人形劇場、スタジオ・ノーヴァの3本柱

プークの歴史が外壁に刻まれている劇場の外観

人形劇団プークは、劇団プーク、プーク人形劇場、スタジオ・ノーヴァの3つの法人を併せた体制で運営しています。創造の中心が劇団プークであり、舞台創造と舞台活動を、プーク人形劇場は劇場の運営と不動産管理、映像関係・メディア関係の部門がスタジオ・ノーヴァです。

劇団の名は、“LA PUPA KLUBO”というエスペラント語に由来しています。エスペラント語はザメンホフという人がつくった国際共通言語です。劇団が生まれたのは、大正時代から昭和初期にかけて、日本の文化が花開いた時代。創設者たちは自分たちが創設した人形クラブを、文字どおりエスペラント語に訳して“LA PUPA KLUBO”という名称にしました。仲間内では、人形を意味するPUPAの“PU”と、クラブを意味するKLUBOの“K”をとって“PUK(プーク)”という略称で呼んでいて、それが定着していきました。昭和21年(1946)11月に劇団を再建するにあたって、劇団名を正式に「人形劇団プーク」としたのです。

■ “プーク”と呼んではいけなかった時代

川尻泰司氏の教えを受け継ぎプークを支える、代表の渡辺真知子さん

戦時中は、劇団の強制解散や活動停止という状況のもと、“プーク”という名前では活動できず、名前を変えながら人形劇の活動をしていました。

戦後の再建の頃はまだアメリカの占領下で、治安維持法はなくなったものの、プークは政治的な思想をもっていると思われ、いろいろな制約があったようです。昭和23年(1948)、宮沢賢治の『オッペルと象』を上演するとき、「働け、働け、死ぬまで働け」という歌にクレームがつき、GHQ(占領軍総司令部)からチェックが入りました。プークとしては、「とにかく一度観てほしい。劇の内容に問題があればいつでも芝居は中止するから」とお願いしました。生の美しい男性コーラスが入るのですが、将校たちはどこに問題の歌があったのかわからないまま満足して帰って行ったという話も残っています。

その後も、テレビ人形劇の始まりのころ、NHKから「プークの名前は使わず出演してほしい」という話があったと聞いています。ベルギーの劇作家であるメーテルリンクの『青い鳥』という作品がありますが、メーテルリンクは「戦争を起こしたドイツと同盟国であった日本には私の作品は使わせない」という遺言を残していました。しかし、メーテルリンク夫人などともやりとりをして、プークが上演権を獲得したのです。それが全国ニュースになり、さすがにNHKも“プーク”と言わざるを得なかったというエピソードもあったそうです。

■ 昭和46年(1971)、日本で初めて現代人形劇専門劇場を建設

気軽に寄ってもらえるようにと入口にはカフェが設けられている

資金に余裕がない人形劇団でしたが、どうしても劇場を持ちたいという想いがありました。バラックの事務所が老朽化して危なくなってきたとき、建て替える話が出て、どうせ建て替えるなら劇場をつくろうということになりました。

昭和44年(1969)の劇団創立40周年を目指し、昭和39年(1964)に建設構想を作り、昭和46年(1971)の暮れにオープンしました。今年43年目で、何度かの改修や改装を繰り返しながらも、外観は当時と変わりません。先輩たちが残したものをこの先どうやって続けていくかというのは、劇団の使命であり、続けていく意味合いもそこにあると思います。ちなみに、平成20年(2008)には耐震診断を行いましたが、結果は望ましい耐震性を有しているといううれしいもの。3.11のときも地下の劇場はスポット1台も動かず、耐震性を実証しました。

昨秋、公演がないときにも気軽に劇場に来てもらえるようなカフェをつくろうということで改装し、何となく気になる建物と思っていた近隣の方たちに寄っていただけるようになりました。地域との連携、人と人とのつながりは大事ですからね。

■ 人々の平和と幸せのために存在する人形劇

人形劇をはじめとする多彩なジャンルの演目が楽しめる劇場公演の舞台

人形劇の観客は幼児から高齢者までと年齢層が幅広いです。これは、感情をもたない人形が心をもって動き出すとき、観る人は劇の世界と登場人物に自分のイメージを重ねやすいからなのではないかと思います。プークは、乳幼児向けの作品や親子そろって楽しむ作品、そして「大人が観たい人形劇」に取り組んでいます。また、怪談『牡丹燈籠』のように演劇鑑賞会に向けた大型の舞台を上演するため、地方にも出かけています。会場も保育園や児童館の遊戯室から体育館、劇場の中ホール、ときには大ホールとさまざま。上演メンバーの編成は4人から13人くらい。作品によって人数も変わります。今は5つの上演班が合体したり別れたりして上演班を構成。年間スケジュールの中で毎回稽古があって結構大変なのですが、「楽しかったね!」「おもしろかった〜」と顔を上気させて帰るお客様を見るとうれしくなって頑張れるわけです。

人形劇は仕込みからバラシまで俳優も裏方も同等に働きます。だから女性も結構力持ちなんですよ。上演作品のレパートリーは毎年変わります。年間の上演数は、1公演2本立てが多いのですが、今年は小さいものも含め約25作品。プーク人形劇場だけでもお正月公演から年末まで7サイクルあります。そのほか、アニメーションやフォークソングとのコラボレーション公演や、ワークショップも行っています。いろんなジャンルの人たちが人形劇に興味をもってコラボをもちかけてくださいますが、余裕がなくてなかなか実現しないのが残念なところです。でも、それだけ人形劇には可能性があるというわけで、頑張らなくては!

戦前戦中の苦しい時代を生きた劇団として戦争反対を言い続けなければと、8月15日を中心に平和企画を行っています。今年は劇団風のOBの『子どもが少国民といわれたころ』と、広島の原爆投下の朝の話である、堀絢子ひとり芝居『朝ちゃん』を上演しました。また、1973年から海外の優れた人形劇を紹介している「世界の人形劇シリーズ」は、20カ国57公演となりました。57回目は、10月に上演したブルガリアのクレドシアター公演でした。

■ ちっちゃくて可愛い濃密空間が生み出す観客とのよい関係

地下3階にある楽屋。過去には漫画に登場したこともあるそう

プーク人形劇場はもともと事務所のあった小さな土地に、ありったけのアイディアを詰め込んで建った劇場です。106席の客席と舞台が近く、ささやきもため息もみんな聞こえてしまうところがいいんです。人形劇専門劇場ですが、深さ4メートル強の“迫り“や舞台の上に設置できる糸操り用のブリッジなどいろんな使い方ができるので、この空間を気に入ってくださる方にはとても魅力的。ただ、客席数が少ないので興行的には採算がとれないことはネックですが、創造の場として大きな可能性をもっているのです。だから、ひとり芝居から寄席芸、朗読会や映画上映、ライブコンサート、大人数で歌い踊るミュージカル……実にさまざまなジャンルの方たちに利用していただいています。ちなみに、ワハハ本舗の演出家・喰始(たべはじめ)さんは、小さくて近い空間が芸人を育てるということで『喰始のショービジネスの作り方』というライブを年に4回、もう15年も続いています。舞台の息づかいが客席の隅々まで感じられる劇場空間、人形劇のために作ったからこそできたのだと思います。

新宿・京王プラザホテルと同じ年に建ったので、あれから43年、周りを高いビルに囲まれて、絵本の『ちいさいおうち』みたいでしょう。通りかかる人は外壁のレリーフを見上げて「レトロですね」って。プーク人形劇場のウリは「ちっちゃくって可愛くって、レトロですごく濃密空間」です。この劇場はプークの人形劇創造の基地であり、ジャンルを超えた表現の発信の場でありたいと思っています。

■ 人形劇の世界をとりまく厳しい環境

劇場に住んでいるねずみくんはプークの遊び心

「人形劇を観たことがありますか?」と聞くと、たいていの人が「ある」と答えるでしょう。その90%以上がテレビの人形劇です。それ以外は、学校に劇団が来たとか、幼稚園の先生がやってくれたとか……テレビの力は偉大です。でも残念なことに、今はテレビの世界でも人形劇番組が少なくなっています。プーク人形劇場には「日本人形劇人協会」と「国際人形劇連盟日本センター」、人形劇関連の団体事務所があります。人形劇人協会はプロとして人形劇の仕事をする人たちの団体で、PREと関係が深いのは、このテレビ人形劇の操演者や美術家でしょう。日本でテレビ放送が始まったころ、テレビの人形劇製作は手探り状態で放送局の技術者と人形劇の人たちが試行錯誤を重ねてその技術を作ってきました。しかし半世紀にも渡って積み上げた技術も人も、高齢化などで現場を去り、加えて番組が減って若い人たちの経験する場が少ない状況です。人形劇ってとても手間がかかるんですよ。CGも使われている番組もありますが、基本、超アナログです。楽しく人形たちが歌い踊っていても、その下には黒子の人形遣いが中腰で汗を流しているのです。まぁ、それを感じさせないところが人形劇の楽しいところなのですけどね。

テレビの世界に限らず、今は舞台創造する人たちにとってとても厳しい状況だと思います。それは社会や経済への不安、希薄な人間関係など言い出せばキリがないですが、いつの時代もそういう情勢の中で、芸能や芝居や人形劇が生まれて来たんじゃないかと思います。どうかたくさんの子どもたちと、大人たちに、人形劇を観て、感性を揺り動かして、心豊かに暮らしてほしいと思います。

■ 劇団の芸術指導者・故 川尻泰司氏の信念のもとで刻んだ歴史

劇場ロビーで販売されているオリジナルのゆび人形

今年は、劇団創立85周年です。また、前代表の川尻泰司が亡くなって20年、今年で生誕100年になります。

彼が最初に国外に出たのが昭和32年(1957)、文化人が海外に出るにはまだとても厳しかった時代です。果敢に海外交流を続け、昭和33年(1958)に「国際人形劇連盟(通称ウニマ)」に加盟しました。海外公演ができるのも、川尻の頃からのつながりです。海外の人形劇のフェスティバルに参加したことがきっかけで、日本でのフェスティバル運動が始まりました。初回が旭川で開催された「北海道人形劇フェスティバル」、そして長野の「いいだ人形劇フェスタ」など各地にあるフェスにつながっています。

日本は文楽をはじめとして、人形を使った芝居の種類がとても豊かな国です。文楽以外にもいろいろな人形芝居があり、人形芝居の宝庫ともいわれています。川尻泰司の教えを大切にし、わが国の伝統的な人形芝居の紹介にも力を入れています。川尻泰司の兄であり、創設者の一人である川尻東次が「伝統から学べ」「子どものためによい仕事をしろ」と言っていたそうです。また、「正しい人形劇をつくっていこう」とも。これらのことが川尻の中には残っていて、その言葉を支えにプークを引っ張ってきたんだろうと思っています。

プークは、川尻といろいろな人との出会いの中で積み上げてきた歴史がありますので、彼が残した文書を冊子にしようと考えています。この20年の間に入った劇団員やスタッフたちは彼を見たことがありませんが、事あるごとに私の口から“川尻”という名前が出てくる。みんな訳がわからないですよね。川尻の動いている映像を観てもらい、こんな人だったという話をしていますが、情報を共有するのはなかなか大変です。劇団員やスタッフの年代の幅が広く、20代前半から80代までいますので、両方が歩み寄らないといけないと思っています。

■ プークの基本は、創造すること

創立85周年を記念して飾られている人形たち。中央は川尻泰司氏

川尻泰司という強力なリーダーが亡くなって今年で20年。なんとかプークを存続しようと駆け抜けてきました。その間、経済的に非常に厳しい状況があって落ち込んだりもしましたが、しっかり創造するということが、プークの歴史をつなげることにつながるはずだと思っています。やっと地に足がついたというか、そういう時代に突入したという気がしますね。今年は、若い人たちといっしょに、これまでの伝統や歴史からどのように劇団が成長しようとしてきたのかをつかんで、そこから歩みだし、そして次は90周年をめざそうと考えています。

人形劇団プーク ホームページ http://www.puk.jp/
スタジオ・ノーヴァ http://www.st-nova.jp/

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